暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

野球と努力と特別扱い

 

暇な京大生、本日の3つの出来事!

 

一つ、夜行バスで帰省したが全然寝られず実家に着いてから8時間以上眠る!

二つ、甲子園の中継を見ていて憤慨する!

三つ、帰省中の日程調整が上手くいかずに焦る!

 

カウント・ザ・単位s!現在暇な京大生の持つ単位の総数は…

 

 

突然ですが私は高校野球が嫌いです。もっと言えば、高校野球を崇める雰囲気が嫌いです。

(元)高校球児やその監督、或いは支えてきた親御さんたちを否定するわけでは決してないことを先にご理解ください。

 

野球というスポーツ自体が嫌いかと言われると別にそうではないです。あまり興味はありませんが…

あくまで、高校野球が嫌いなのです。

 

思い返してみて欲しいのですが高校時代、美術部やその他個人で取った優秀賞は一応学校で表彰されるものの、大して話題にも上らなければ、その受賞した人間に対する目だって何も変わらなかったのではありませんでしたか?

ところが野球においては、県ベスト16くらいでも学校中大騒ぎ、全校応援だなんだと抜かしやがりましたよね?

 

これは非常におかしいと思っていて、どの部活も本当は一様に扱われなくてはいけないんです。なんなら部活に限らずあらゆる活動全てが。

競技人口が少ない競技、多い競技、或いは個人競技団体競技、色んな競技があると思いますが何かを特別視してはいけない。

好きでその分野を選んで高校生活をかける訳ですからそれぞれの分野の価値に差はないはずでしょ。

それに何かで1番になるためには絶対に努力が必要です。その努力の量はどんな競技でも(どんな分野でも)変わらないと思うんですよ。

色んなものを捨てて野球に打ち込んでいる球児たちは本当にすごいと思います。が、何振り構わず努力してるのは球児たちだけではないです。

私のいた高校では吹奏楽部が本当に休みなく頑張っていたのを知っていますし、1年遅れで部活を始めて同級生に追いつこうと必死だったやつも知っています。

彼らがその努力を見てもらって称賛されたいと思ってるかどうかは置いといて、少なくとも称賛されるべきではあるんですよね、高校野球に対する熱気を見れば。

 

私たちは常にフラットな目で何事も見なくてはならないのだと思います。どんな分野であれ1位になったやつは称賛されるべきであるし、逆に県ベスト16くらいなら騒がれるべきではない。野球ですぐ全校応援だと叫ぶのなら、競歩でインターハイまであともう少しだった私の友人こそ全校応援されるべきです。

なんなら京大模試で冊子掲載された私だって全校生徒の前で表彰してくれてもよかったんですよ。高校生で勉強してるのって多分野球してる人たちよりも多いですよね?

 

甲子園が全国で中継されるんだったら、全国選抜高校テニス大会も中継されるべきだし、全国吹奏楽コンクールだってワイドショーを賑わせなくちゃいけない。

 

高校野球だけ酷く特別扱いされてませんか?

 

高校球児を称賛するなら他の分野で頑張る高校生も応援してやってくれ。

そうじゃないなら球児も応援すんな。

サボりと精神と非童貞への昇華

 

 

暇な京大生、ここまでのハイライト

 

ブログを始めて数週間目にして大サボり

幸せとはなんぞやを考えていたら失踪していた

リレー小説とレポートに追われててんやわんや

 

 

 

カウント・ザ・単位s!現在暇な京大生の持つ単位の総数は…

 

 

私のブログを毎日楽しみにしてくれている読者諸君、お久しぶりである。暇な京大生を名乗っているくせにレポートに追われてブログの更新をサボっていたことに関してはお詫びを申し上げよう。私も少しくらいやらなくてはいけないことが溜まるときもある。理系大学生やぞ。許してください。お願いします。

 

さて本題に入ろう。

 

その日、隣人が家に女を連れ込んでいた頃、壁ドンの代わりに「ファルコンパンチ!」と絶叫しながら私は童貞と非童貞の違いについて考えていた。

私は童貞であり、Fラン大学のテニサーに在籍する、ラケットよりも女の乳を握っている時間の方が長そうなヤリチン野郎は非童貞である。これは疑いの余地はない。だが、かのヤリチン野郎も元は童貞だったはずである。如何にして彼は非童貞になるに至ったか。そもそも、童貞と非童貞を如何にして見分けるのか。

 

スーパー大辞林によれば童貞とは「男性が、まだ女性と肉体的交渉の経験をもっていないこと。また、その男性。」らしい。

これに従えば、童貞か否かは自己申告がなければ一切分からないはずである。今朝私がウンコをしたかどうかくらいには分からないはずなのだ。

ところがどっこい、童貞か否かはある程度見分けることができるようだ。

 

一つは見た目である。見かけにさえ気を遣えないようなクソゴミ陰キャには交渉に応じる女などいるまいという予測により、こいつは童貞であると断定される。一種の統計推定であるからこの予測はある程度正確であると言えそうだ。だがしかし、これは童貞であるかどうかを検証するものであり、非童貞かどうかはわからない。見た目がいかに清潔感にあふれていようが童貞ではないとは言い切れないのだ。

 

次は女性の扱いの上手さである。女性の扱いがうまいやつは間違いなく非童貞である。もはやヤリチンと言っても過言ではない。女は自分をうまく扱う男が好きである。これは私の経験則である。なお、私が女性をうまく扱えたことはない。いいように扱われたことなら幾度となくある。笑いたければ笑え。ところで女性の扱いが下手なやつが皆、童貞なのかと言われるとそこは怪しいものがある。下手ぶっている非童貞も中には存在しており、羊の皮をかぶって相手を油断させておいて突然牙をむく狡猾なキツネ野郎もそこらには大勢いる。黒スキニーにオーバーサイズのトップスを着たキノコヘアー野郎は大体こうだ。全部刈り取って衣にくぐらせてアツアツの油に放り込んでやる。蕎麦に浮かべればさぞ美味かろう。なお普通に初めてできた彼女とお互いの初めてを交換して非童貞になりやがる不届き者もいる。こういうやつらは女性の扱いの上手さは並である。

 

したがって、女性の扱いが下手で、清潔感があふれた私のような好青年は童貞か否かよくわからないのである。

 

ところで、かのヤリチンはいかにして非童貞へと変貌したのか。繰り返すが、彼も生まれて間もないころは我々と同じ童貞だったはずである。そんな彼も、中学か高校か、或いは大学かであるとき出会いがあり、その人との成功体験が彼を非童貞へと押し上げたのだろうか。

そこには疑問が残る。彼女ができたからと言って童貞根性が抜けきらない奴は大勢いるからである。行為に及んでもなお、童貞根性が抜けない輩もいる。成功体験があるくせに自らに自信を持たずに、一度たまたまできた彼女にフラれた後、一向に新しい彼女を作りに行けない奴、お前のことだぞ。

 

ここで、一つの仮説が立つ。

童貞か非童貞かは、「女性と行為に及んだ経験があるか」ではなく、「女性と行為に及んだ経験がある風であるか」なのではないだろうか。言葉を換えれば、童貞か否かは精神の問題であるというわけだ。

かのヤリチンはヤリチンになるだけの精神が生まれたころから存在しているのである。中高の頃にできた彼女と致したかどうかは関係がないのだ。彼は生まれた瞬間から非童貞なのである。逆に、彼女と行為に及んでも童貞根性が抜けきらない奴は一生童貞である。

行為に及んだかどうかは童貞か否かには何の関係もない。相関は多少あるだろうが、順番が逆なのだ。非童貞だから行為に及べるのである。行為に及んだから非童貞ではない。

 

この時、女性と行為に及ばずとも非童貞になることは可能である。

何を言っているのかわからないという貴様は小学校から国語をやり直すとよい。

 

私も童貞を捨て非童貞へと昇華しようと思う。これは、別に風俗に行ったりマッチングアプリで知り合ったしょっぺえ女を金払って抱くとかそういうことではない。高尚なる精神の進化の話をしている。自らに自信を持ち、紳士的でありながらも女に媚びず、体を鍛え、彼女にしたい女がいれば積極的に攻めていく。そういう男になろうという話をしているのだ。

 

まずは形からである。

というわけで、パーマをかけて耳たぶに風穴を空けた。

 

イキリ陰キャの完成である。

初夏とラムネと眠れない夜

 

彼はその日、疲れがたまっていたのか5限の実験が終わって家に着くやベッドに倒れこんだ。

夜中の12時に目を覚ます。

腹が減ったな。まどろみの中でそう思った。

最近外食が多すぎて出費がかさんでいるから自炊しなくては、そう思ったがもう近所のスーパーは閉まっていた。

ふらふらと近所のコンビニまで歩いていく。

普段は24時間営業なんて無駄だろ、などと色々なところで吐いているくせに都合のいいときだけしっかり利用するのが彼の悪い癖だ。

少しきれいなお姉さんがパスタコーナーの前で、今晩の糧を決めかねていた。普段の生活に異性の影などない。こういうところで自ら出会いを作らなくては…話しかけようかと思ったが止めた。冷静に考えろ、お前のような奴に話しかけられたら怖い。

 

踵を返して、インスタント麺のコーナーへと足を運ぶ。彼にはこちらの方がお似合いだ。いつものようにカップヌードルBIGを手に取る。今日はこっちにしようか…期間限定の味噌味にした。

ふと、缶飲料がたくさん陳列してある冷蔵庫を見ると、期間限定のラムネサワーが一際光って見えた。そうか、もうそんな季節か。夏に何か思うところでもあるのだろうか、明日も一限のくせにストロング缶を手に取る。

先ほどのお姉さんを尻目に、気休め程度に蒸し鶏サラダを手に取る。ドレッシングは別売りだが家にあるポン酢で誤魔化すことにした。

レジに立つ、もはや顔馴染みのきれいな禿頭の店主に商品を手渡す。

ーあと、86番ください。

メビウススーパーライトでお間違いないですか?

ーいかにも。

ーパネルのタッチをお願いします。

 

「カードで。」と言いたいが為だけに最近作った、ソフトバンクプリペイドカードで会計を済ませて店を出た。結局1000円を超えてしまったからラーメンでも食いに行った方が安くついたなと少し後悔する。

 

 

夜風が心地よかった。ストロング缶のフタをプシュッと鳴らす。ゴクリと喉を通ったその液体はラムネ味とは言い難かった。殆ど合成甘味料とウォツカの味ではないか!だが、それもまた一興である。

 

アルコールの所為か彼の気質の所為か、家に着くまでの100メートルほど、昔のことを思い出す。高1の頃の夏はこうであったとか、高3の夏はもう嫌だとか、去年の夏に引き起こした事件だとか…

 

あの時、こうしていれば あの日に戻れれば あの頃の僕にはもう戻れないよ

 

好きなバンドの歌詞が思い起こされた。

 

もうさよならなんだ。

 

家の前で先ほど買ったメビウスにそっと火を点ける。マンションの廊下の蛍光灯は彼の部屋の前だけ切れてしまっていた。

やれやれ、何のために地元を捨ててここまで来たんだろう。いや、そんなこと考えても仕方がないか。

目覚めたくないと思う朝が増えたのはいつからだろうか。

 

嫌なことなんて忘れよう。そう言って、少し残ったスクラロースサワーを飲み干す。

やっぱり9%は少し重かったか。

 

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今週のお題「家で飲む」

夢と朝と冬の海

 

 

 蛍光灯のまぶしさにふと目が覚める。ニトリで買った安い茶色のソファから起き上がると、いつもは窓の外から聞こえる自動車やバイクの走行音でうるさい私の部屋がやたらと静かだった。やれやれ、また電気つけっぱなしで眠りこけていたのか。

 

 

 変な夢を見ていた。

 そこでは、私はまだ高校生でなぜか小さなフェリーに乗っていた。広い客席には私一人であった。大きなソファ席でゴロゴロして、大好きな自販機のコーラを悠々と飲む。不思議なことに味がしない。―外には誰かいるかもしれないな。

 

 デッキに出るとそこは故郷の海であった。風は肌を切るように冷たい。その癖に、潮がべったりと体にまとわりつくようでもある。空は灰色によどんでいて、白い泡が青黒い海に浮かんでいた。ああ、今は冬なんだなと何となく思った。やはり、私ひとりだった。ぼんやりと暗い海が眼下を通り過ぎていくのを眺める。私はこのまま、ひとり流れていくのだろうか。フェリー特有の腹の底をつくような揺れが少し心地よかった。

 

 気が付くと港についていた。何事にも終着点があるものだと先ほどとは真逆の感想を抱いて、船から降りる。港というよりは電停のようでもあった。寂しい場所だった。コンクリートでできた仮初めの大地は、よどんだ空と同じ色であった。なぜか四方を青黒い闇が囲んでいた。向こうの方に小さな四角い建物が見える。私が立つ場所と陸地との間を激しい波が分かつ。あの建物は関所だ。なぜか知っていた。関所まで行けば誰かに会える。そう思って学ランのまま、ザブンと冬の海に飛び込む。目の前を無数の白い星がきらめいている。奇妙にも冷たいという感覚はなかった。今にも流されてしまいそうな激しい闇の中でもがく。小学校の頃、水泳を習っていてよかった。少しは泳ぎの心得がある。飲み込まれてしまいそうになりながらも、少し泳ぐと底に足がついた。なんだ思ったより簡単じゃないか。

 

 陸に上がると、まだギターを背負っていない頃の旧友がいた。私はひとりではなかったのか。小さな関所に入ると天井の蛍光灯がまぶしかった。

 

 

 

 スマホを見ると既に午前3時半を回っていた。今日も一限か、寝なおしたら起きれる自信はないな。バイトがないのが少しだけ救いか…ツイッターを開くと、大学の友人が334とつぶやいている。なんでや、阪神関係ないやろ。ああ、まだライバロリの動画を見ていなかった。ブログも書いてないじゃん。宿題は…まあいいか。

 ティファールの湯沸かし器のスイッチを入れて、その場でぼんやり少し待つ。親から仕送りで送られてきたインスタントコーヒーに湯を注ぐ。

 コーヒーの良し悪しはよくわからないが、評論家気取りで安い味だ、とつぶやく。

 

 カーテンを開けると藍色の空を、生まれたての太陽が下から照らしていた。

 早朝の心地よい涼しさがそこにあった。

愛といいねと己の価値観

 

先日、友人から言われたこと

 

「お前はモテなくていい、お前の面白さを分かる人間だって俺くらいでいい」

 

この言葉、凄く嬉しかった。というのも、これは私という存在が誰かひとりにでも刺さっていることの証左なんですよね。しかも、私が万人にウケるわけではないということを自分自身理解していて、ちゃんと自分を見る人間がいるのかという不安を抱えながらずっと生きてきた私にとって救いでもありました。

 

 

普段、このご時世に生きるホモサピエンスたちのご多分に漏れず、私は様々な不安を抱えて生きています。その中で一番の不安が「自分は他者に受け入れられるのか」というものです。

はっきりと申し上げて友達が多い方ではないし、もうじき生まれて四半世紀になんなんとするけれども彼女の一人もできたことがない。

そんな私が世間一般に本当に通用するのか、そしてそんな私が一番好きな私の価値観って本当に大丈夫なのかと不安にならざるを得ません。

 

現代の若者の多くはきっと私と同じような不安を多かれ少なかれ感じていることと思います。でなければ、わざわざSNSに自分の気持ちや楽しかったことなんかを共有して、いいねの数に一喜一憂するなんてことしません。自らの生活切り売りして金にもならないのに公開するメリットなんか本来ありませんから。

 

SNSは結局確認作業なんですよね。

  自分にはちゃんと友達はいるのか

  自分の価値観は間違っていないか

こんなことを確かめるためにみんなSNSをやっている。

みんなやってるからやるっていうのも結局は他者の価値観に自らを合わせていくという行為に過ぎないのですから、もはや2個目の不安の確認作業でさえなく、解答を答案に写しているだけの思考停止です。

 

 

突然ですが私はインスタが嫌いです。

というのも、世に出回る多くの投稿は別にその投稿者にしかできないものではないからです。流行のタピオカドリンクを飲み、おしゃれなお店でご飯食べて…という行為は本当にあなたにしかできないものですか?誰がやっても同じやんけそんなん。

特定の誰かに対する感謝だって、わざわざストーリーを介してフォロワーに見せびらかさなければいけないものなんですかね?

感謝って本来、その施しを与えてくれた人間との間でのみ存在するものじゃないですか?

日本人の本来の感覚としては自分が他者に与えた施しは見せびらかされたくないものではありませんでしたか?

旅行の写真だって誰でもその場に行けば、技術の差はあれども再現可能だし、そもそも誰か知らん奴と写ってる写真なんてその本人たちにしか意味ないんですよね。

旅行に行ってそこで何かしらの体験をして誰かに共有したい、そう思うんだったら第三者から見ても面白いもの、見る価値のあるものを作れよ、なんなら俳句でも読め!

 

と私はそう思います。

 

 

自分自身に芯がなくて、何でも他人の模倣ばかり、そんな人間の作るものは面白くなんかない。少なくとも私は「いいね」なんか死んでも押せない。

 

ツイッターでもそうですし、もちろん私が書いているブログだってそうなんですけど、他人に何かを見せるという時点で私たちは「表現者」なんですよね。コンテンツにあふれた現代で他人から見てもらおうと思うんだったらある程度の個性や独自性、非互換性といったものがないとだめじゃないですかね?

 

私は自分自身が面白いと思うものを公開していきたいし、そこのアイデンティティだけは大事にしていきたい。自分の価値観こそが自分にとって唯一無二の「正解」の価値観なのです。それを面白がってくれない人間と一緒にいても真の理解なんかない。

 

自分自身の芯をしっかりと持って、その「芯」を愛してくれる人が一人でもいたらいい。

 

 

こんなことを考えながら今日も私は生きていく。

Twitterのゴミ溜めからもっと大きな世界へ

どうも暇な京大生です。

 

ついったーで普段クソしょうもないツイートばかりしてるマンなんだけど、

 

俺の思想ってもっと多くの人に見てもらえてもいいよね?

もっと面白がってくれる人間いてもよくない?

よっしゃ、じゃあネットの荒波に飲まれてみるか!

 

と思った次第なので、暇な学生であることに大変忙しい私もブログを開設することにしました。

 

このブログを読んでくれたツイッターのフォロワー諸君は今後も見るように

また私のツイッターをまだフォローしてない人はフォローしていただけると励みになります。

 

今後は主にその日の出来事なり、思ったことなりを伝えていこうかなと思っております。

いつまで続くかわかんないけど、次もぜってえ見てくれよな!(cv野沢雅子