暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

八畳間閑話大系

 

 大学卒業までの4年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的優位の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでもいい布石ばかり狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。

 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

 私とて入学以来このような有様だったわけではない。

 入学間もないころの私は意気軒昂の権化であり、宮本武蔵の全盛期もかくやと思われる気力、邪念の欠片もないその笑顔は新歓してくる先輩どもを愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を見るたびに怒りにかられる。なにゆえお前はそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるお前の総決算だというのか。

 まだ若いのだからという人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。

 そんな馬鹿なことがあるものか。

 学部生活も最高八年までというのに、当年とって二十と二つ、あと二年で立派な社会人になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。既にこちこちとなって虚空に屹立している己が人格を無理に捻じ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山だ。

 今ここにある己を引きずって、生涯を全うせねばならぬ。その事実に目を瞑ってはならぬ。

 私は断固として目を瞑らぬ所存である。

 でも、いささか見るに堪えない。

 

 

 高校の頃は硬式テニスをやっていたものの、特に結果も残せず、テニスをしに行くと言うよりは、部活後に皆でやる人狼のためにテニスコートに顔を出していた。しかし、私はピカピカの一回生。幻の至宝と言われる薔薇色のキャンパスライフへの扉が今ここに無数に開かれているのを目の当たりにし、興奮半ば朦朧としていた。

 

 そして私が選び取ったのは、競技ダンスサークル「舞踏研究会」

 黒髪の乙女たちと手取り足取り、愛と情熱のダンスを踊るのだ。

 そう考えていた私は、手の施しようのない阿呆だった。

 

 

 二回生の夏、まだそれなりに薔薇色であった私の脳みそを現実という鋭い刃が一閃した。経験者の少ないスポーツで関西の頂点を目指すのも悪くないとたかをくくっていたが、他人と息を合わせて一つの目標に向けて努力し続けることがいかに難しいかを思い知らされた。タイミングをうまく合わせるどころか、まともにペア関係を作ることもかなわず、練習へのモチベーションも上がらない。どこかよそで自分の意識を高く保つ方法と女性の扱い方を学んでくる必要があったと気づいたときには既に手遅れであり、私はサークルで限界を迎えていた。

 その時、私の傍らにはひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な男すらおらず、私にはひとりの同志もいなかった。

 

 夏合宿直前、はちきれんばかりに膨れ上がった私の堪忍袋の緒がついにぶち切れた。サークルの全体LINEに一言、一身上の都合により退部しますとのみ告げ、そのまま故郷の長崎に高跳びし、サークルからの追手が来ないか、実家のベッドの中でガタガタと震えていた。ガタガタと震えつつも離島へ海水浴へ行き、精いっぱい身体をこんがりと焼き、浴びるように酒を飲んだ。

 2週間ほどが過ぎ、たいして面白くもない居酒屋のバイトのために京都に戻り、下宿で息をひそめていたころ、サークルの先輩から呼び出しを食らった。これで最後だ、と思いながら私は百万遍の北にある小さな居酒屋「なみなみ」へとママチャリを走らせた。

 

 夏合宿から帰ってきた彼らは、最初は和やかな雰囲気で何を飲むか聞いてきた。飲み会の際、かのサークルでは麦酒の他に一切を口にするのは許されていなかったのに、不気味な優しさを感じた。麦酒以外の飲み物を知らなかったので、その質問は特に意味をなさなかった。「なみなみ」特有の妙に背の低いジョッキに、店名に負けないほど、なみなみと注がれた麦酒が来ると、いつものように乾杯の音頭を取った。しばらく飲んで、誰が合宿で馬鹿をやっただの、誰と誰が乳繰り合ってるのを妨害してやっただの、多少和やかな話をしているうちにいつしか、私の進退の話になっていた。最初はやんわりと続けるつもりはない旨を伝えていたが、押し問答の末、声を荒げ始めたのは言うまでもない。

 

「ペアの子や同期や、後輩たちに申し訳なくないのか?お前だって、ここまで頑張ろうとしてきたじゃないか!」

「うるせえ、ここにいて4年で大学が卒業できんのかよ!とうにこっちの心は折れてんだよ!」

「それはお前の怠慢だろうが!」

 

 正論である。ぐうの音も出ない。それを言われてしまえばもうオワリである。だが私は負けなかった。負けることができなかった。しかし、あの時負けていた方が私も彼らも幸せになれたに違いない。

 その後もお互いに疲れきるまで罵倒のオンパレードは続き、店を出たのは深夜の1時過ぎだった。

 

 そのまま時は一息に二年半も飛ぶ。

 

 ちなみに、この二年半、成人式で泥酔して醜態をさらし、三回生の一年間だけで、六十か七十ほどの単位を取ったことの他に特筆すべきこともない。またその二つも語るに値しない。八畳間の中心に据えた炬燵の中でひとりぬくぬくと、ただひたすらに己と向き合い続けるばかりの二年半であった。私が古代ギリシャ人であったならば、ソクラテスの代わりに聖人として名を連ねたことであろう。

 

 卒論も書き終わり卒論発表も終わったというのに春休みに入れず、新入生向けだという研究紹介パンフレットの作成に追われていた私は、相も変わらず京阪神丸太町駅近傍にある研究室のデスクでいつまでたっても使い方になれないAdobe illustrator CS5 をいじくりまわしていた。ペンツールの仕様の分かりづらさにムクムクと下腹部、もとい腹をおっ立てていると、懐かしい名前から一通の連絡が来た。辞めたサークルの後輩からであった。私のかつての同期が卒部するので、一言ビデオメッセージを撮らせてほしいとのことだった。その後輩は、私がサークルを辞めるまでのほんの数か月の間可愛がっていた後輩であったし、私が辞めたあとに生じた様々なややこしい問題を引き継がせてしまっていたという負い目もあったので、断るわけにはいかなかった。

 

 夕方、研究室を早めに切り上げ鴨川デルタに向かうと、そこには懐かしい後輩がいた。このコロナ禍で、昨年一年間はサークルの運営に非常に困っていたらしいこと、元同期たちが大乱交アナブラザーズS〇Xと化していたらしいこと、その他もろもろ彼らのダンスの成績や、男女関係のもつれなど、様々なことを聞いた。彼らは私が抜けた後、色々な問題を抱えながらも、四年間を全うしたらしかった。

 

 彼らに残すべき言葉など、何があるだろうかとひとしきり考えた結果、端的におめでとうとしか言えなかった。彼らの四年間は私が過ごした四年間よりもよっぽど濃く、血と汗と涙と変な汁にまみれ、たいへん面白おかしいものであったことだろう。そんな彼らに私が特別かけるべき言葉などない。辞めて逃げ出した人間は彼らと深くかかわらずそっとしておいてあげるべきであり、慎ましやかにただ悶々と己と向き合い続けるほかないのである。後輩が語る、彼らの四年間のほんの一部は、嫌味と不満と呪詛に満ち満ちていたが、私には艶めかしく光って見えた。

 

 入学当初、私がふわふわと妄想していた薔薇色のキャンパスライフは彼らのそばにあったのかもしれない。しかし、私が二回生の夏に取った選択を否定することはできない。あの日の私にはあの選択しかできなかったのであり、あそこで辞めなかったからと言ってあの状態の私が当時よりさらに酷い有様にならなかったとは到底思えない。とはいえ、あり得たかもしれない、いくつもの私を想像することからは逃れられない。二回生の夏前に謝るべきところできちんと謝ることができていれば、二回生に上がるとき入るスタジオを間違えなければ、一回生の秋にあんな面白くとも何ともない居酒屋のバイトなど選ばなければ、一回生の夏までにサークルの実態にいち早く気づいていれば。ほんの些細な決断の違いで私の運命は変わる。日々私は無数の決断をするのだから、無数の異なる運命が生まれる。無数の私が生まれる。その無数の私を観測できれば、もっと諦めがつくのだろうか。

 

 すっかり日も落ちてしまった今出川通を最近買ったロードレーサーで東に駆け上がった。春が近づき、夜風も少し暖かくなってきている。初めてこの街に来た頃には満足に自転車にも乗れず、街路樹によく激突して生傷を作っていたなとぼんやり考えながら、ギアを一段上げた。

 

 

 かつて、京都大学の誰かが言ったそうである。

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々を規定するのは我々の持つ可能性ではなく、不可能性である。」

 

 私はその言葉の意味を痛感する。しかし、いささか受け止めきれない。