暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

愛といいねと己の価値観

 

先日、友人から言われたこと

 

「お前はモテなくていい、お前の面白さを分かる人間だって俺くらいでいい」

 

この言葉、凄く嬉しかった。というのも、これは私という存在が誰かひとりにでも刺さっていることの証左なんですよね。しかも、私が万人にウケるわけではないということを自分自身理解していて、ちゃんと自分を見る人間がいるのかという不安を抱えながらずっと生きてきた私にとって救いでもありました。

 

 

普段、このご時世に生きるホモサピエンスたちのご多分に漏れず、私は様々な不安を抱えて生きています。その中で一番の不安が「自分は他者に受け入れられるのか」というものです。

はっきりと申し上げて友達が多い方ではないし、もうじき生まれて四半世紀になんなんとするけれども彼女の一人もできたことがない。

そんな私が世間一般に本当に通用するのか、そしてそんな私が一番好きな私の価値観って本当に大丈夫なのかと不安にならざるを得ません。

 

現代の若者の多くはきっと私と同じような不安を多かれ少なかれ感じていることと思います。でなければ、わざわざSNSに自分の気持ちや楽しかったことなんかを共有して、いいねの数に一喜一憂するなんてことしません。自らの生活切り売りして金にもならないのに公開するメリットなんか本来ありませんから。

 

SNSは結局確認作業なんですよね。

  自分にはちゃんと友達はいるのか

  自分の価値観は間違っていないか

こんなことを確かめるためにみんなSNSをやっている。

みんなやってるからやるっていうのも結局は他者の価値観に自らを合わせていくという行為に過ぎないのですから、もはや2個目の不安の確認作業でさえなく、解答を答案に写しているだけの思考停止です。

 

 

突然ですが私はインスタが嫌いです。

というのも、世に出回る多くの投稿は別にその投稿者にしかできないものではないからです。流行のタピオカドリンクを飲み、おしゃれなお店でご飯食べて…という行為は本当にあなたにしかできないものですか?誰がやっても同じやんけそんなん。

特定の誰かに対する感謝だって、わざわざストーリーを介してフォロワーに見せびらかさなければいけないものなんですかね?

感謝って本来、その施しを与えてくれた人間との間でのみ存在するものじゃないですか?

日本人の本来の感覚としては自分が他者に与えた施しは見せびらかされたくないものではありませんでしたか?

旅行の写真だって誰でもその場に行けば、技術の差はあれども再現可能だし、そもそも誰か知らん奴と写ってる写真なんてその本人たちにしか意味ないんですよね。

旅行に行ってそこで何かしらの体験をして誰かに共有したい、そう思うんだったら第三者から見ても面白いもの、見る価値のあるものを作れよ、なんなら俳句でも読め!

 

と私はそう思います。

 

 

自分自身に芯がなくて、何でも他人の模倣ばかり、そんな人間の作るものは面白くなんかない。少なくとも私は「いいね」なんか死んでも押せない。

 

ツイッターでもそうですし、もちろん私が書いているブログだってそうなんですけど、他人に何かを見せるという時点で私たちは「表現者」なんですよね。コンテンツにあふれた現代で他人から見てもらおうと思うんだったらある程度の個性や独自性、非互換性といったものがないとだめじゃないですかね?

 

私は自分自身が面白いと思うものを公開していきたいし、そこのアイデンティティだけは大事にしていきたい。自分の価値観こそが自分にとって唯一無二の「正解」の価値観なのです。それを面白がってくれない人間と一緒にいても真の理解なんかない。

 

自分自身の芯をしっかりと持って、その「芯」を愛してくれる人が一人でもいたらいい。

 

 

こんなことを考えながら今日も私は生きていく。