暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

あの頃の沢山の屍の上に僕らは立っている

 

中学時代を思い出していた。

中2まではそれなりにバラ色だった私の中学生活は、中3になってすぐ鈍色に変わった。

LINEが流行り始めていた2013年、スマホを持っているのはクラスでも私を含めて10人程度だった。すぐさまクラスLINEにぶち込まれたが、そこで話されていた内容はお世辞にも上品とは言えなかった。誰かの悪口や、ひどい下ネタがほとんどだった。その雰囲気はさながら学校の裏掲示板のようであった。生半可に育ちの良い私はその雰囲気に馴染めず1週間ほどでクラスLINEを抜けてしまい古巣であるツイッターに逃げ込んだ。

クラスの中枢となんとなく折り合いの悪くなった私は気がつけば陰キャの烙印を押され、教室の隅っこへと左遷されていた。

それは仕方のないことである。インスタやLINEへと移行するおしゃれな陽キャたちについていけないダサい時代遅れどもは当然陰キャになるのだった。

 

 

教室の隅っこの暗がりに生息していたのは私のようなキノコだけではなかった。

イクラで爆破ばかりしているゴミムシや、街のゲームセンターに入り浸っていたマイマイカブリども、親のクレカでパズドラに莫大な額の課金をするカネクイムシなど個性豊かでろくでもない虫けらばかりだった。

居場所のない私は彼らと付き合っていくほかなかったが、彼らとの付き合いはそう楽しいものでもなかった。彼らと一緒にいればいるほど女子たちの目は厳しいものになり、発言権もどんどん失われていく。そのストレスから奇行を繰り返しそれはさらに加速した。

あそこから抜け出して今もそこそこきちんと生きているのはアゴを割った彼とミリオタが高じて防衛大に行った彼くらいではないか。

 

 

その虫けらどもは中3の頃はまだ学校にのさばっていたが、高校に上がって数か月もしないうちに目減りしていった。殺虫剤を直接まかれていたかどうかは知らない。少なくとも高1のときに同じクラスだったマイマイカブリの一匹はクラスから迫害を受けていたわけではなかったように思う。なぜだか徐々に学校に来なくなって秋ごろには教室から姿を消していた。

 

あの学校で生き残るには結局、学力か話の面白さか課外活動へのひたむきさが必要だった。

周りに一目置かれるような何かがないと、どんどん舞台の隅に追いやられて最後には落っこちてしまう。ニコニコ動画ばかり見漁り、ゲームとカラオケにしか時間を使わない彼らは内輪ネタでしか盛り上がれず、学力も低迷していった。可哀そうに彼らはせっかく中学受験までして入ったあの学校で最後まで生き残ることはかなわなかったのである。

 

私も彼らと同じ道を歩んでいたかもしれなかった。

実のところ、もともと高校でテニスを続けるつもりはなかった。どうせ勝てもしないのに続けていくことに何の意味があるのか、それよりも彼らと同様ゲーセンにでも入り浸ってだらだらしていた方が楽なのではなかろうか…

そう考えていてハッとしたのは高校に入学する直前である。何かしらの運動部に入らないともっと寂しい学校生活を送ることになる。帰宅部に発言権の一つもあるわけがない。

これに気がつけたのは中3の私の唯一にして最大の功績である。

事実、高校の部活は中学の部活より数段楽しかったし、思い出も残した。私の高校生活の最大の基盤が部活だったことは間違いない。

その基盤が失われた私の高校生活など想像したくもない。

 

 

結局のところ私はあの虫けらたちを捨て置いたのだ。

高1の頃にあのマイマイカブリにもっと気をかけていれば、彼はちゃんと大学に進学していたかもしれないし、同じ小学校のよしみで彼女に声をかけてあげていれば、もっと前向きな人生を歩んでいたかもしれない。

だが私はそれをしなかった。また彼らと同列に扱われるのがとても怖かったし、そもそも気にかける余裕もなかった。

 

私は相応に成功した。彼女もできていないし、童貞も卒業していないけど、そこそこ友達もでき、京都大学にも進学できた。大学院もひとまずは大丈夫そうだ。

それは高校入学時に彼らと決別したのが大きいように思う。

 

 

人生のレールから外れてしまった彼らの屍の上に私は今立っている。