暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

「バンザイ」

 

 その日、私たちは化学第一教室にいた。

 二号館の一階の一番奥の薄暗くて、少し埃っぽい教室だ。授業で使うのは手前にある第二教室の方であったから、その教室に入るのは高校に上がってからは2度目だった。

 とりあえずは休憩だな。

 準備があるというのを口実に片付けをサボって、2‐7の教室に置いていたリュックを回収して、一足先に体操服を脱いだ。喉はカラカラに乾いていたが、とっくに水筒は空っぽになっていた。自販機でジュースを買うのはさすがに憚られたから、冷水器でお茶を濁した。辺りはとても静かだった。私たちのほかに校舎の中には誰もいなかった。ちょっと優越感にひたる。

 窓の外を見ると、先ほどまで私たちを強く照りつけていた太陽はだいぶ傾き、テントや机なんかを片付ける他の生徒たちをオレンジ色に染めていた。ついさっきまで騒がしかったグラウンドも少し物寂しさを感じる。

 

 

 一週間前から二人減って、本当にうまくやれるかは心配だった。あの失敗から自分たちの実力の低さを思い知ってしまった。1年前のように根拠のない自信なんて持てなかった。つい5日前にあいつが後夜祭も出ようと言い出したのには、正直あきれた。あんな思いをしたのに、まだやるのか。そもそも後夜祭用に曲なんか練習してこなかったじゃないか。有志として申し込みもしてないのに。1週間前の酷い有様の主な原因は自分にあったことを強く自覚していたのもあって、最初は全く乗り気ではなかった。でも一応バンマスは私であったし、ギターの二人がやりたいと言うのなら、やるしかなかった。いや、私自身も挽回したかったのかもしれない。

 ウルフルズのバンザイのスコアを渡されたが、サビ前のフィルイン以外はほぼ無視した。私にできることなどたかが知れていたからだ。愚直に8ビートを叩くほかにできることなどなかったのだ。そもそも練習時間は1週間もない。とりあえず、二人と合わせることだけに集中した。夏休み中よりよっぽどまともに練習していたと気づくのは後で振り返ったときである。3回くらいスタジオに行くことができ、思っていたよりサマにはなったが、自信を持つには足りなかった。

 

 

 

 

 何時くらいから始まるっけ。

 片付けが終わり次第やけん、もうちょいやろ。

 

 普段は着ないような少し派手なTシャツに着替えて、ドラムスティックを手に取った。衣装のつもりだった。実は朝からこっそり眉毛を剃ってきていた。どうせ、ステージの奥にいる奴の眉なんか見えないのに滑稽なものだが、自分なりに見た目を気にした結果である。

 気が付くとグラウンドには誰もいなくなっていて、ステージだけがぽつんと残されていた。涼しい風が肌をなでる。吹奏楽部から借りたドラムセットをえっちらおっちら運び、持ってきた小さなアンプを今回はなるべくドラムの近くに置いた。前回はギターの音が全く聞こえずに、演奏がバラバラになってしまった。リハーサルの時間も目いっぱい取ってもらった。二度と失敗したくなかった。

 ひとしきり準備が終わってしばらくして、ちらほらと制服に着替えた一般生徒たちが集まり始めた。後夜祭の司会が壇上に立って漫才紛いのことを始めたころ、私たちはステージの後ろで最後の打ち合わせをした。不思議なことに、あまり緊張はしていなかった。

 司会がくるっとこちらを振り返り、準備はいいかと小さな声できいてきた。いつでもどうぞと無言で小さくうなずき、背筋を伸ばした。

 

 有志によるバンド演奏です!

 

 申し訳程度の拍手。たくさんの目がこちらを見ている。アウェーとは言わないまでも、観客のまなざしは少し冷たい。もともと私たちはたいして目立つ方でもない。見た目だってパッとしないし、直前にやっていた体育祭で得点に貢献したわけでもない。花火までのつなぎとでも思われているのかもしれない。でも私たちはステージの上に立ってドラムとギターを鳴らす。ヒーローになんてなれなくても、何かを残したかった。

 

 あいつが慣れないMCを一言二言喋ったあと、一呼吸置いて、歌い始める。

 

 イェーイ 君を好きでよかった

 このまま ずっとずっと 死ぬまでハッピー

 バンザイ 君に会えてよかった

 このまま ずっとずっと ラララふたりで

 

 ワンコーラスの後に最初のフィルだ。ノリでカバーしろ。クラッシュを鳴らして、ここからは一安心。ベースがいないから、全体の音もペラペラだし、リズムがちょっと不安だ。

 ―でも今日はギターの音が聞こえるからイケる― 先週のようにはいかないぞ。気持ちが逸ってもテンポはキープしろ。スネアの音が気持ちいい。震えるシンバルは俺の魂そのものだ。誰にも邪魔されない、俺たち3人だけの世界。クソザコギターソロ?知らん知らん!お前ら見ているか。俺たちは今この瞬間、お前らの前に立っている。今の俺たちを見ろ!

 

 

 観客の様子を見ることができたのは、ラスサビのところだった。眼前に広がる黒々とした大量の頭の上に沢山の腕が見える。名前もよく知らない一個上の先輩たち、数少ない友達、そして抜けた二人、みんなが歌詞の「バンザイ」に合わせて腕を挙げてくれていた。一緒に歌ってくれる人たちもいた。歓声なんて上がらなくても、それだけで十分だった。十分過ぎた。

 

 

 ありがとうございました!

 

 ほとんどぶっつけ本番の演奏を何とかやり遂げ、深くお辞儀をした。申し訳程度の拍手が少しだけちゃんとしたものになったのを聞いてステージを降りた。

 

 

 

 化学第一教室に戻り、今度は制服に着替えて余韻に浸った。さっきよりも大分涼しくなった。今度はこっそり自販機でジュースも買える。あいつらはいつの間にかどっかに行ってしまっていた。隅で体を寄せ合うカップル、告白するだのしないだので騒ぐ野郎ども、早く帰りたいだけの陰キャたち、色んな姿がグラウンドにはあった。

 明日からまた、いつもの冴えない日々が始まるのか。来年も出られるだろうか。

 

 一人で見上げた藍色の空に、もうじき最後の花火があがる。