暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

幸せになれない私は成功者の夢を見る

  

私はこの世に生を受けて以来、何者かになりたいと思って生きてきた。

 

幼稚園の頃は仮面ライダーになりたいと言っていたし、小学校の頃は政治家になりたいと言っていた。中学に入ると無謀にも小説家やバンドマンにあこがれ、高校生になったころには、とりあえずは勉強で学年1位になって京大生になりたいと思っていた。

 

さて私はいま紛う方なき京大生であり、あの田舎の自称進学校で理系では1番だったことは否定できない事実であろう。

 

だからと言って、その状況に満足がいっているかというとそれは否である。

 

あの自称進学校で私のようなヘンテコな人間は肩身が狭い部分があり、少なくとも誰からも尊敬されるような高尚な存在にはなれなかった。成人式や同窓会での冷遇っぷりを見れば、アラブの過激派たちも思わず武器から手を放し目を覆うことだろう。

京大生と言っても2回生前期までの愚行の所為で成績は恐るべき低空飛行、そもそも京大生などという肩書があったところでマッチングアプリのプロフィールにも書けやしないし、あまり知られていないことだが、実は周りも皆京大生である。不思議なことに私ひとりが京大生というわけではなかったようである。

 

かつて、幸せとは何かこのブログでも論じたことがあったが、それに則せば少なくとも高校入学以来5年と数か月もの間、現状に満足のいったことの無い私に幸せな気分のときなどなかったのである。浮浪者のようにコンビニをうろうろをすることは多分にあるが、帰り道で思い出す人もいない。

 

 

だからと言って私が向上心の塊かと言われればそうではない。むしろ私の本質は「できることしかやらない怠慢主義者」である。自らができることを無理くり増やしたり、日本語も上手く使えないくせに海外に渡航するようなこともしない。無駄にSNSのプロフィールを着飾ったり、サークルにのめり込んでコイツら最高!などと言ったりすることもない。精神性が中学生からまともに成長していないので努力がかっこ悪いと思っている節もある。

 

要は、やってみて偶々できたことしか続けてはいないのである。学業などはその最たるものであり、2回生後期から始めた大学の勉強も現在きちんと周りに追いついているからなんとか続けているし、このブログも書いてみたら物好きな読者がついたから続けているに過ぎない。

齢二十を超えて、何をするにも芽が出そうなことにしかコストを支払えなくなった。

国も基礎研究に金を出さないしオトナには仕方がないことなのだ。私もまたオトナの男である。すなわち紳士である。

 

最低限の努力しかしない吾に何ぞ向上心あらんや。私の意識は常にゴキブリのように地を這っている。いや、ゴキブリのような紳士である。

 

 

さて私が今どこを目指しているかと言えば、ひたすらに自らのアイデンティティを確立することに勤しんでいる。具体的には、他の人間とは違う部分や自分にしかできないことを探す作業である。まるで採掘作業である。墓穴を掘っているだけなどとは言ってはいけない

我々が個人たり得るのは、他者とは違う何かを持っているからである。顔面、身長、性格、生年月日、生まれた場所、趣味趣向、血圧、利き手、一日のトイレの回数、歩くときに使う足の本数、シャーペンの芯の太さ、GPAなどそれは多岐にわたるが、これらのうちまだ未確認なものは才能だけである。

能ある鷹のごとく隠し続けてきた才能を炭鉱夫のごとくカンカンほじくりかえし、それを開花させることだけが、もはや八方塞がりになった私に残された唯一の道であり、何者かになる方法なのである。

 

他人と同じ人生など面白くとも何ともない。私は私であり唯一無二の存在である。

そんな私にふさわしいエンディングが訪れるのかは甚だ疑問だが、それを信じて何やら汚い汁で満ち満ちたこの目の前の道を邁進するのみである。