暇な京大生の日常

暇な京大生が気まぐれでテキトーにやってるブログです

八畳間閑話大系

 

 大学卒業までの4年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的優位の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでもいい布石ばかり狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。

 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

 私とて入学以来このような有様だったわけではない。

 入学間もないころの私は意気軒昂の権化であり、宮本武蔵の全盛期もかくやと思われる気力、邪念の欠片もないその笑顔は新歓してくる先輩どもを愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を見るたびに怒りにかられる。なにゆえお前はそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるお前の総決算だというのか。

 まだ若いのだからという人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。

 そんな馬鹿なことがあるものか。

 学部生活も最高八年までというのに、当年とって二十と二つ、あと二年で立派な社会人になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねたところで何となろう。既にこちこちとなって虚空に屹立している己が人格を無理に捻じ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山だ。

 今ここにある己を引きずって、生涯を全うせねばならぬ。その事実に目を瞑ってはならぬ。

 私は断固として目を瞑らぬ所存である。

 でも、いささか見るに堪えない。

 

 

 高校の頃は硬式テニスをやっていたものの、特に結果も残せず、テニスをしに行くと言うよりは、部活後に皆でやる人狼のためにテニスコートに顔を出していた。しかし、私はピカピカの一回生。幻の至宝と言われる薔薇色のキャンパスライフへの扉が今ここに無数に開かれているのを目の当たりにし、興奮半ば朦朧としていた。

 

 そして私が選び取ったのは、競技ダンスサークル「舞踏研究会」

 黒髪の乙女たちと手取り足取り、愛と情熱のダンスを踊るのだ。

 そう考えていた私は、手の施しようのない阿呆だった。

 

 

 二回生の夏、まだそれなりに薔薇色であった私の脳みそを現実という鋭い刃が一閃した。経験者の少ないスポーツで関西の頂点を目指すのも悪くないとたかをくくっていたが、他人と息を合わせて一つの目標に向けて努力し続けることがいかに難しいかを思い知らされた。タイミングをうまく合わせるどころか、まともにペア関係を作ることもかなわず、練習へのモチベーションも上がらない。どこかよそで自分の意識を高く保つ方法と女性の扱い方を学んでくる必要があったと気づいたときには既に手遅れであり、私はサークルで限界を迎えていた。

 その時、私の傍らにはひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な男すらおらず、私にはひとりの同志もいなかった。

 

 夏合宿直前、はちきれんばかりに膨れ上がった私の堪忍袋の緒がついにぶち切れた。サークルの全体LINEに一言、一身上の都合により退部しますとのみ告げ、そのまま故郷の長崎に高跳びし、サークルからの追手が来ないか、実家のベッドの中でガタガタと震えていた。ガタガタと震えつつも離島へ海水浴へ行き、精いっぱい身体をこんがりと焼き、浴びるように酒を飲んだ。

 2週間ほどが過ぎ、たいして面白くもない居酒屋のバイトのために京都に戻り、下宿で息をひそめていたころ、サークルの先輩から呼び出しを食らった。これで最後だ、と思いながら私は百万遍の北にある小さな居酒屋「なみなみ」へとママチャリを走らせた。

 

 夏合宿から帰ってきた彼らは、最初は和やかな雰囲気で何を飲むか聞いてきた。飲み会の際、かのサークルでは麦酒の他に一切を口にするのは許されていなかったのに、不気味な優しさを感じた。麦酒以外の飲み物を知らなかったので、その質問は特に意味をなさなかった。「なみなみ」特有の妙に背の低いジョッキに、店名に負けないほど、なみなみと注がれた麦酒が来ると、いつものように乾杯の音頭を取った。しばらく飲んで、誰が合宿で馬鹿をやっただの、誰と誰が乳繰り合ってるのを妨害してやっただの、多少和やかな話をしているうちにいつしか、私の進退の話になっていた。最初はやんわりと続けるつもりはない旨を伝えていたが、押し問答の末、声を荒げ始めたのは言うまでもない。

 

「ペアの子や同期や、後輩たちに申し訳なくないのか?お前だって、ここまで頑張ろうとしてきたじゃないか!」

「うるせえ、ここにいて4年で大学が卒業できんのかよ!とうにこっちの心は折れてんだよ!」

「それはお前の怠慢だろうが!」

 

 正論である。ぐうの音も出ない。それを言われてしまえばもうオワリである。だが私は負けなかった。負けることができなかった。しかし、あの時負けていた方が私も彼らも幸せになれたに違いない。

 その後もお互いに疲れきるまで罵倒のオンパレードは続き、店を出たのは深夜の1時過ぎだった。

 

 そのまま時は一息に二年半も飛ぶ。

 

 ちなみに、この二年半、成人式で泥酔して醜態をさらし、三回生の一年間だけで、六十か七十ほどの単位を取ったことの他に特筆すべきこともない。またその二つも語るに値しない。八畳間の中心に据えた炬燵の中でひとりぬくぬくと、ただひたすらに己と向き合い続けるばかりの二年半であった。私が古代ギリシャ人であったならば、ソクラテスの代わりに聖人として名を連ねたことであろう。

 

 卒論も書き終わり卒論発表も終わったというのに春休みに入れず、新入生向けだという研究紹介パンフレットの作成に追われていた私は、相も変わらず京阪神丸太町駅近傍にある研究室のデスクでいつまでたっても使い方になれないAdobe illustrator CS5 をいじくりまわしていた。ペンツールの仕様の分かりづらさにムクムクと下腹部、もとい腹をおっ立てていると、懐かしい名前から一通の連絡が来た。辞めたサークルの後輩からであった。私のかつての同期が卒部するので、一言ビデオメッセージを撮らせてほしいとのことだった。その後輩は、私がサークルを辞めるまでのほんの数か月の間可愛がっていた後輩であったし、私が辞めたあとに生じた様々なややこしい問題を引き継がせてしまっていたという負い目もあったので、断るわけにはいかなかった。

 

 夕方、研究室を早めに切り上げ鴨川デルタに向かうと、そこには懐かしい後輩がいた。このコロナ禍で、昨年一年間はサークルの運営に非常に困っていたらしいこと、元同期たちが大乱交アナブラザーズS〇Xと化していたらしいこと、その他もろもろ彼らのダンスの成績や、男女関係のもつれなど、様々なことを聞いた。彼らは私が抜けた後、色々な問題を抱えながらも、四年間を全うしたらしかった。

 

 彼らに残すべき言葉など、何があるだろうかとひとしきり考えた結果、端的におめでとうとしか言えなかった。彼らの四年間は私が過ごした四年間よりもよっぽど濃く、血と汗と涙と変な汁にまみれ、たいへん面白おかしいものであったことだろう。そんな彼らに私が特別かけるべき言葉などない。辞めて逃げ出した人間は彼らと深くかかわらずそっとしておいてあげるべきであり、慎ましやかにただ悶々と己と向き合い続けるほかないのである。後輩が語る、彼らの四年間のほんの一部は、嫌味と不満と呪詛に満ち満ちていたが、私には艶めかしく光って見えた。

 

 入学当初、私がふわふわと妄想していた薔薇色のキャンパスライフは彼らのそばにあったのかもしれない。しかし、私が二回生の夏に取った選択を否定することはできない。あの日の私にはあの選択しかできなかったのであり、あそこで辞めなかったからと言ってあの状態の私が当時よりさらに酷い有様にならなかったとは到底思えない。とはいえ、あり得たかもしれない、いくつもの私を想像することからは逃れられない。二回生の夏前に謝るべきところできちんと謝ることができていれば、二回生に上がるとき入るスタジオを間違えなければ、一回生の秋にあんな面白くとも何ともない居酒屋のバイトなど選ばなければ、一回生の夏までにサークルの実態にいち早く気づいていれば。ほんの些細な決断の違いで私の運命は変わる。日々私は無数の決断をするのだから、無数の異なる運命が生まれる。無数の私が生まれる。その無数の私を観測できれば、もっと諦めがつくのだろうか。

 

 すっかり日も落ちてしまった今出川通を最近買ったロードレーサーで東に駆け上がった。春が近づき、夜風も少し暖かくなってきている。初めてこの街に来た頃には満足に自転車にも乗れず、街路樹によく激突して生傷を作っていたなとぼんやり考えながら、ギアを一段上げた。

 

 

 かつて、京都大学の誰かが言ったそうである。

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々を規定するのは我々の持つ可能性ではなく、不可能性である。」

 

 私はその言葉の意味を痛感する。しかし、いささか受け止めきれない。

あの頃の沢山の屍の上に僕らは立っている

 

中学時代を思い出していた。

中2まではそれなりにバラ色だった私の中学生活は、中3になってすぐ鈍色に変わった。

LINEが流行り始めていた2013年、スマホを持っているのはクラスでも私を含めて10人程度だった。すぐさまクラスLINEにぶち込まれたが、そこで話されていた内容はお世辞にも上品とは言えなかった。誰かの悪口や、ひどい下ネタがほとんどだった。その雰囲気はさながら学校の裏掲示板のようであった。生半可に育ちの良い私はその雰囲気に馴染めず1週間ほどでクラスLINEを抜けてしまい古巣であるツイッターに逃げ込んだ。

クラスの中枢となんとなく折り合いの悪くなった私は気がつけば陰キャの烙印を押され、教室の隅っこへと左遷されていた。

それは仕方のないことである。インスタやLINEへと移行するおしゃれな陽キャたちについていけないダサい時代遅れどもは当然陰キャになるのだった。

 

 

教室の隅っこの暗がりに生息していたのは私のようなキノコだけではなかった。

イクラで爆破ばかりしているゴミムシや、街のゲームセンターに入り浸っていたマイマイカブリども、親のクレカでパズドラに莫大な額の課金をするカネクイムシなど個性豊かでろくでもない虫けらばかりだった。

居場所のない私は彼らと付き合っていくほかなかったが、彼らとの付き合いはそう楽しいものでもなかった。彼らと一緒にいればいるほど女子たちの目は厳しいものになり、発言権もどんどん失われていく。そのストレスから奇行を繰り返しそれはさらに加速した。

あそこから抜け出して今もそこそこきちんと生きているのはアゴを割った彼とミリオタが高じて防衛大に行った彼くらいではないか。

 

 

その虫けらどもは中3の頃はまだ学校にのさばっていたが、高校に上がって数か月もしないうちに目減りしていった。殺虫剤を直接まかれていたかどうかは知らない。少なくとも高1のときに同じクラスだったマイマイカブリの一匹はクラスから迫害を受けていたわけではなかったように思う。なぜだか徐々に学校に来なくなって秋ごろには教室から姿を消していた。

 

あの学校で生き残るには結局、学力か話の面白さか課外活動へのひたむきさが必要だった。

周りに一目置かれるような何かがないと、どんどん舞台の隅に追いやられて最後には落っこちてしまう。ニコニコ動画ばかり見漁り、ゲームとカラオケにしか時間を使わない彼らは内輪ネタでしか盛り上がれず、学力も低迷していった。可哀そうに彼らはせっかく中学受験までして入ったあの学校で最後まで生き残ることはかなわなかったのである。

 

私も彼らと同じ道を歩んでいたかもしれなかった。

実のところ、もともと高校でテニスを続けるつもりはなかった。どうせ勝てもしないのに続けていくことに何の意味があるのか、それよりも彼らと同様ゲーセンにでも入り浸ってだらだらしていた方が楽なのではなかろうか…

そう考えていてハッとしたのは高校に入学する直前である。何かしらの運動部に入らないともっと寂しい学校生活を送ることになる。帰宅部に発言権の一つもあるわけがない。

これに気がつけたのは中3の私の唯一にして最大の功績である。

事実、高校の部活は中学の部活より数段楽しかったし、思い出も残した。私の高校生活の最大の基盤が部活だったことは間違いない。

その基盤が失われた私の高校生活など想像したくもない。

 

 

結局のところ私はあの虫けらたちを捨て置いたのだ。

高1の頃にあのマイマイカブリにもっと気をかけていれば、彼はちゃんと大学に進学していたかもしれないし、同じ小学校のよしみで彼女に声をかけてあげていれば、もっと前向きな人生を歩んでいたかもしれない。

だが私はそれをしなかった。また彼らと同列に扱われるのがとても怖かったし、そもそも気にかける余裕もなかった。

 

私は相応に成功した。彼女もできていないし、童貞も卒業していないけど、そこそこ友達もでき、京都大学にも進学できた。大学院もひとまずは大丈夫そうだ。

それは高校入学時に彼らと決別したのが大きいように思う。

 

 

人生のレールから外れてしまった彼らの屍の上に私は今立っている。

「バンザイ」

 

 その日、私たちは化学第一教室にいた。

 二号館の一階の一番奥の薄暗くて、少し埃っぽい教室だ。授業で使うのは手前にある第二教室の方であったから、その教室に入るのは高校に上がってからは2度目だった。

 とりあえずは休憩だな。

 準備があるというのを口実に片付けをサボって、2‐7の教室に置いていたリュックを回収して、一足先に体操服を脱いだ。喉はカラカラに乾いていたが、とっくに水筒は空っぽになっていた。自販機でジュースを買うのはさすがに憚られたから、冷水器でお茶を濁した。辺りはとても静かだった。私たちのほかに校舎の中には誰もいなかった。ちょっと優越感にひたる。

 窓の外を見ると、先ほどまで私たちを強く照りつけていた太陽はだいぶ傾き、テントや机なんかを片付ける他の生徒たちをオレンジ色に染めていた。ついさっきまで騒がしかったグラウンドも少し物寂しさを感じる。

 

 

 一週間前から二人減って、本当にうまくやれるかは心配だった。あの失敗から自分たちの実力の低さを思い知ってしまった。1年前のように根拠のない自信なんて持てなかった。つい5日前にあいつが後夜祭も出ようと言い出したのには、正直あきれた。あんな思いをしたのに、まだやるのか。そもそも後夜祭用に曲なんか練習してこなかったじゃないか。有志として申し込みもしてないのに。1週間前の酷い有様の主な原因は自分にあったことを強く自覚していたのもあって、最初は全く乗り気ではなかった。でも一応バンマスは私であったし、ギターの二人がやりたいと言うのなら、やるしかなかった。いや、私自身も挽回したかったのかもしれない。

 ウルフルズのバンザイのスコアを渡されたが、サビ前のフィルイン以外はほぼ無視した。私にできることなどたかが知れていたからだ。愚直に8ビートを叩くほかにできることなどなかったのだ。そもそも練習時間は1週間もない。とりあえず、二人と合わせることだけに集中した。夏休み中よりよっぽどまともに練習していたと気づくのは後で振り返ったときである。3回くらいスタジオに行くことができ、思っていたよりサマにはなったが、自信を持つには足りなかった。

 

 

 

 

 何時くらいから始まるっけ。

 片付けが終わり次第やけん、もうちょいやろ。

 

 普段は着ないような少し派手なTシャツに着替えて、ドラムスティックを手に取った。衣装のつもりだった。実は朝からこっそり眉毛を剃ってきていた。どうせ、ステージの奥にいる奴の眉なんか見えないのに滑稽なものだが、自分なりに見た目を気にした結果である。

 気が付くとグラウンドには誰もいなくなっていて、ステージだけがぽつんと残されていた。涼しい風が肌をなでる。吹奏楽部から借りたドラムセットをえっちらおっちら運び、持ってきた小さなアンプを今回はなるべくドラムの近くに置いた。前回はギターの音が全く聞こえずに、演奏がバラバラになってしまった。リハーサルの時間も目いっぱい取ってもらった。二度と失敗したくなかった。

 ひとしきり準備が終わってしばらくして、ちらほらと制服に着替えた一般生徒たちが集まり始めた。後夜祭の司会が壇上に立って漫才紛いのことを始めたころ、私たちはステージの後ろで最後の打ち合わせをした。不思議なことに、あまり緊張はしていなかった。

 司会がくるっとこちらを振り返り、準備はいいかと小さな声できいてきた。いつでもどうぞと無言で小さくうなずき、背筋を伸ばした。

 

 有志によるバンド演奏です!

 

 申し訳程度の拍手。たくさんの目がこちらを見ている。アウェーとは言わないまでも、観客のまなざしは少し冷たい。もともと私たちはたいして目立つ方でもない。見た目だってパッとしないし、直前にやっていた体育祭で得点に貢献したわけでもない。花火までのつなぎとでも思われているのかもしれない。でも私たちはステージの上に立ってドラムとギターを鳴らす。ヒーローになんてなれなくても、何かを残したかった。

 

 あいつが慣れないMCを一言二言喋ったあと、一呼吸置いて、歌い始める。

 

 イェーイ 君を好きでよかった

 このまま ずっとずっと 死ぬまでハッピー

 バンザイ 君に会えてよかった

 このまま ずっとずっと ラララふたりで

 

 ワンコーラスの後に最初のフィルだ。ノリでカバーしろ。クラッシュを鳴らして、ここからは一安心。ベースがいないから、全体の音もペラペラだし、リズムがちょっと不安だ。

 ―でも今日はギターの音が聞こえるからイケる― 先週のようにはいかないぞ。気持ちが逸ってもテンポはキープしろ。スネアの音が気持ちいい。震えるシンバルは俺の魂そのものだ。誰にも邪魔されない、俺たち3人だけの世界。クソザコギターソロ?知らん知らん!お前ら見ているか。俺たちは今この瞬間、お前らの前に立っている。今の俺たちを見ろ!

 

 

 観客の様子を見ることができたのは、ラスサビのところだった。眼前に広がる黒々とした大量の頭の上に沢山の腕が見える。名前もよく知らない一個上の先輩たち、数少ない友達、そして抜けた二人、みんなが歌詞の「バンザイ」に合わせて腕を挙げてくれていた。一緒に歌ってくれる人たちもいた。歓声なんて上がらなくても、それだけで十分だった。十分過ぎた。

 

 

 ありがとうございました!

 

 ほとんどぶっつけ本番の演奏を何とかやり遂げ、深くお辞儀をした。申し訳程度の拍手が少しだけちゃんとしたものになったのを聞いてステージを降りた。

 

 

 

 化学第一教室に戻り、今度は制服に着替えて余韻に浸った。さっきよりも大分涼しくなった。今度はこっそり自販機でジュースも買える。あいつらはいつの間にかどっかに行ってしまっていた。隅で体を寄せ合うカップル、告白するだのしないだので騒ぐ野郎ども、早く帰りたいだけの陰キャたち、色んな姿がグラウンドにはあった。

 明日からまた、いつもの冴えない日々が始まるのか。来年も出られるだろうか。

 

 一人で見上げた藍色の空に、もうじき最後の花火があがる。

生存報告

 

読者の諸君ごきげんよう。私はどっこい生きている。少し積み残しがあるものの留年を回避してホクホクである。

 

期末試験も終わり春休みになって3週間ほどが経過して3回後期のGPAポケモンアメタマだと発覚したその日、ベニテンはふと思い立った。

 

 

そうだブログを書こう。

 

 

年明けからツイッターを離れた私の言論の場はこの場所のみに限られてしまっているが、ツイッターでつぶやく代わりに上がると思われていた此処の投稿頻度も気づけば地に落ちており、このままいくと私という人間が皆に忘れ去られてしまうぞという漠然とした不安がもわもわと立ち込めている。それでも大して書くことがないのは困ったものである。

 

去年の6月ごろ、このブログを書き始めた時期には何故あれだけ書くことがあったのかよくわからないし、今思えばあの頃の私はウニかヤマアラシくらいとげとげしていたのだが、その棘も一本一本記事にしていったら年明け前にはとっくに玉切れになってしまい、今の私はきれいさっぱりつるつるである。

 

それでも何とか書かなくちゃあいけないので、あれこれと思案を巡らせてみるものの出てくるのはどこかで聞いたような話ばかりである。オモチロイ話などそういつも生まれるものではない。私が敬愛する森見登美彦氏の新刊を出すペースがどんどん下がってきているのもなんとなくわかるような気がする。

 

時事ネタでも書いてみるかと思っても、ツイッターを離れるとテレビもろくに見ない私は時間の経過に非常に疎くなっているが、社会情勢にも疎くなっているのは言うまでもない。そんな私の唯一の情報源は親からのLINEであり、コロナウイルスが何やら本当に危ないらしいぞという話も槇原敬之覚せい剤取締法違反で逮捕されたのも父親の鬼のかまちょによって知らされた。

 

ところでツイッターを離れて少しいいことがあった。

ベニテンは本来、面白いこと好きの明るい人間である。異論は認めない。

 

小学校の頃はクラスの人間、ひいては学年全体を率いる圧倒的リーダーとしての資質を見せてブイブイ言わせていた私は、姉に「中学に入ってからはあんまり表に立たないほうがいいぞ」と言われていたのもあり、中学ではその持ち前の覇王色の覇気を隠した結果、気づけば友達の少ない陰キャへとなり下がってしまったが、その本質は小学校の頃からあまり変わっていないのである。高2、3の頃の担任のN先生は卒業式のときにクラスのみんなそれぞれに手紙をくれたがそこには、ベニテンも本当はリーダーシップを取れる人間だと書いてくれており、私の本質を見抜いていたN先生の慧眼には脱帽するばかりである。

 

そんな潜在的陽キャのベニテンは大学の友達グループの中では仕切り屋さんである。テスト終わりの打ち上げも、関係ない普通の遊びもそのほとんどは私が企画するものである。というより私以外誰もそんなことしないので寂しがりやの私がそうするしかないのであるが。

とはいえ、ツイッターでいいね稼ぎをする代わりにLINEで友達に、かまってチョンマゲとちょっかいをかけるようになってから前年比300%ほどの頻度で誰かに会うことができているのは大変喜ばしいことである。

ツイッターでの人間関係を捨てたつもりもないが、なけなしのいいねよりは渋々でも酒だの飯だのに付き合ってくれる近所の友人を大事にするのは精神衛生上かなり良い。承認欲求が満たされても腹は満たされないのである。

 

 

スマホばかり見つめていても思い出の一つもできないぞというのは誰の言葉だったか。

インターネットの海に手のひらサイズのいかだで漕ぎ出しても仲間の一人も見つからない。ルフィだって仲間を見つけるのはいつもどこかの島に上陸してからなのだ。

 

やはりどこかで聞いたような話である。

過去を一つ清算できたので書く

私の過去のうちの一つをようやく清算できたので書く。

 

バイトが少し長引いたので、バイト先の近くのラーメン屋で晩飯を済まそうと思って券売機に並んだら、目の前に辞めたサークルの先輩がいた。

なんとなくこんな季節だし、その先輩も先日引退したことを知ってたので、もう赦されてるだろうと思って話しかけてみた。

思っていた以上にフランクに話してくれたし、同期が今何してるのかとか、一個下の後輩たちがどうなったとか、その他いろいろの話はそこそこ弾んだ。そのころ、その同期たちや後輩たちは何をしてたかと言えば、月曜だというのに飲み会をしていたらしく、成り行きで私がスペシャルゲストとして二次会に呼ばれてしまうことになった。

 

飲み会の会場の前で出待ちしようというので10分くらい寒い中ボケッと待っていたら、ぽろぽろかつての仲間たちが出てきて、私の顔を見るなり、爆笑するのである。

 

え、なんで?という顔をする奴もいれば、久しぶりだなと比較的歓迎してくれる奴もいたし、その場の笑いにするだけでたいして関心を持たない奴や、そもそも私を知らない一回生もいた。私がかつて在籍していたころ私に辞める相談をしていた後輩もその中にはおり、結局続けちゃいましたと笑いながら言ってくれた。でもやっぱり、去年の夏に最後まで引き留めてくれてた同期の一人は私と言葉を交わすことも、笑うこともしなかったし、彼には許されてなどいないのだろう。

 

久しぶりに彼らのぶっ飛んだ会話や行動その他もろもろに触れて分かったが、彼らは部外者としてみると大変騒がしく迷惑で困った団体であることは明白である一方で、その中にいれば凄く面白かったのである。実際私もそういった部分は在籍していたころ好きだったしあのサークルの魅力だったのかもしれない。

 

彼らからかけられた言葉で一番多かったのが、「変わってないな」だった。確かにこの1年半弱で私が変わった部分は少ないだろう。拗らせているのはもともとだし、見た目も色々変えたあと元に戻ったし、滑舌も変わらない。精神性は変わったような気もするが、それは2、3言話しただけではわからないだろう。

 

だがそれ以上に彼らは成長しているのかもしれない。彼らはあの理不尽とプレッシャーと酒にまみれた狂った世界で私がいなくなった後の1年半もの間生き続けていたのだから何かしらの成長はしているに違いない。対して私はこの1年半、単位以外のものを新たに手に入れた記憶がない。新しい友達も、後輩も、彼女も、組織の歯車として働く経験も、努力に付随する結果も、目標も、希望も、思い出も、何も手に入れていない。

 

彼らとひと騒ぎした後(迷惑にも他人様のマンションの前で)、彼らはめいめいにどこかへ去っていった。私は置いてけぼりにされてしまって、ああもうここに俺の居場所はないんだと実感させられてしまった。1年半前には確かにそこにあった私の居場所はとうに私自身が破壊しつくしてしまったあとだったのである。

 

彼らには彼らの1年半があり、私には私の1年半があった。

ゆるぎない事実である。

今更あの夏の決断を悔いるつもりはないし、今からそれを取り戻そうとするつもりもない。実際彼らの世界に身を置いていたとして、私が今生きていたかと言えばきっとそれは否だろう。私にはあの狂気の世界で相応に活躍し学業もそつなくこなすような器量も根性も端からなかったのだ。

彼らの1年半は称賛に値するものなのかもしれない。私にはできなかったことを成し遂げているからだ。

だから私も、この1年半を誇らなくてはいけないのだ。何も成さず、何も成せなかったこの長い時間を。

だが、この切ない気持ちは何なのだろうか。

幸せになれない私は成功者の夢を見る

  

私はこの世に生を受けて以来、何者かになりたいと思って生きてきた。

 

幼稚園の頃は仮面ライダーになりたいと言っていたし、小学校の頃は政治家になりたいと言っていた。中学に入ると無謀にも小説家やバンドマンにあこがれ、高校生になったころには、とりあえずは勉強で学年1位になって京大生になりたいと思っていた。

 

さて私はいま紛う方なき京大生であり、あの田舎の自称進学校で理系では1番だったことは否定できない事実であろう。

 

だからと言って、その状況に満足がいっているかというとそれは否である。

 

あの自称進学校で私のようなヘンテコな人間は肩身が狭い部分があり、少なくとも誰からも尊敬されるような高尚な存在にはなれなかった。成人式や同窓会での冷遇っぷりを見れば、アラブの過激派たちも思わず武器から手を放し目を覆うことだろう。

京大生と言っても2回生前期までの愚行の所為で成績は恐るべき低空飛行、そもそも京大生などという肩書があったところでマッチングアプリのプロフィールにも書けやしないし、あまり知られていないことだが、実は周りも皆京大生である。不思議なことに私ひとりが京大生というわけではなかったようである。

 

かつて、幸せとは何かこのブログでも論じたことがあったが、それに則せば少なくとも高校入学以来5年と数か月もの間、現状に満足のいったことの無い私に幸せな気分のときなどなかったのである。浮浪者のようにコンビニをうろうろをすることは多分にあるが、帰り道で思い出す人もいない。

 

 

だからと言って私が向上心の塊かと言われればそうではない。むしろ私の本質は「できることしかやらない怠慢主義者」である。自らができることを無理くり増やしたり、日本語も上手く使えないくせに海外に渡航するようなこともしない。無駄にSNSのプロフィールを着飾ったり、サークルにのめり込んでコイツら最高!などと言ったりすることもない。精神性が中学生からまともに成長していないので努力がかっこ悪いと思っている節もある。

 

要は、やってみて偶々できたことしか続けてはいないのである。学業などはその最たるものであり、2回生後期から始めた大学の勉強も現在きちんと周りに追いついているからなんとか続けているし、このブログも書いてみたら物好きな読者がついたから続けているに過ぎない。

齢二十を超えて、何をするにも芽が出そうなことにしかコストを支払えなくなった。

国も基礎研究に金を出さないしオトナには仕方がないことなのだ。私もまたオトナの男である。すなわち紳士である。

 

最低限の努力しかしない吾に何ぞ向上心あらんや。私の意識は常にゴキブリのように地を這っている。いや、ゴキブリのような紳士である。

 

 

さて私が今どこを目指しているかと言えば、ひたすらに自らのアイデンティティを確立することに勤しんでいる。具体的には、他の人間とは違う部分や自分にしかできないことを探す作業である。まるで採掘作業である。墓穴を掘っているだけなどとは言ってはいけない

我々が個人たり得るのは、他者とは違う何かを持っているからである。顔面、身長、性格、生年月日、生まれた場所、趣味趣向、血圧、利き手、一日のトイレの回数、歩くときに使う足の本数、シャーペンの芯の太さ、GPAなどそれは多岐にわたるが、これらのうちまだ未確認なものは才能だけである。

能ある鷹のごとく隠し続けてきた才能を炭鉱夫のごとくカンカンほじくりかえし、それを開花させることだけが、もはや八方塞がりになった私に残された唯一の道であり、何者かになる方法なのである。

 

他人と同じ人生など面白くとも何ともない。私は私であり唯一無二の存在である。

そんな私にふさわしいエンディングが訪れるのかは甚だ疑問だが、それを信じて何やら汚い汁で満ち満ちたこの目の前の道を邁進するのみである。

 

ブラックサークルを辞めてから一年経った

 

 

どうも、暇な京大生です。

そういえば留年は回避しました。

カウント・ザ・単位s!卒業研究着手までに必要な単位はあと20

というわけで来期は10コマ取ればいいので余裕です。ちなみに前期は20コマ以上入ってました。一週間で15個もテスト受けて殆ど取り切ったの本当に誰かに褒めてほしい。

 

 

 

そもそもなぜ私が留年ギリギリの学生生活を送る羽目になったかというと何もかも一回生の春から2回生の夏まで在籍していたサークルに端を発します。

 

一回生の春、学生証交付のため大学の事務局に足を運んだあの日、大学構内の桜の木の下でブルーシートを敷いて酒盛りをやっている妙な団体がいました。その前を通りかかったとき、「君、新入生?」と声をかけられました。

学部はどこかと尋ねられたので工学部だと答えると、工学部の子何人かいるし話だけでもしていったら?と言うので、いっちょ話だけでもしていくか、と思いその輪に入っていきました。当時は田舎からはるばるひとりで京都まで来ていて、地元の友達も殆どいない状況でしたので大変不安でした。知り合いだけでも欲しかったんですよね。でも、思えばこれが運の尽きでした。

さて、その輪に入ってみると何人か新入生らしき顔ぶれも見受けられました。

その新入生たちと仲良くすればいいものを、波長が合ってしまったのはその団体の先輩たちでした。どんどん話が盛り上がり、いいやつだと言われ、その場に馴染んでいってしまいました。

そのままそこに居ついてしまって気が付けば4月末、新歓期も殆ど終わっていたにも関わらず新歓に参加したサークルはそこを含めてわずか4団体ほどで、新歓期を一番長く過ごしたその団体に所属するほか道が残されていませんでした。

所謂、「新入生の囲い込み」のいいカモになってしまっていたのでしょう。

結局、大学構内で酒盛りをしていた謎のサークルに入ることになってしまいました。

 

さてこの謎の団体は、ただの飲みサーではありませんでした。むしろただの飲みサーなら辞めていなかったと思います。

入ってみてからわかったことですが、実はこのサークル、とあるスポーツをするサークルでした。新歓期に試合に連れていかれたこともありますが、この後タダ飯が食えるなとしか考えておらず、試合の内容をちゃんと見ていたわけではなかったので、そのスポーツの全容をきちんと理解できていませんでした。

それでも夏ごろまでは、週2回程度ゆるーくそのスポーツをやっているだけで、偶に先輩の家で遊んだりご飯に連れて行ってもらったり殆ど新歓期と変わらなかったので、「別にいっか、先輩たちもいい人だしタダ飯も食えるし友達も何人かできたし」と思ってのほほんと過ごしていました。ですが夏休みからのサークルの急変に私は驚かされることになります。

 

夏休みの中旬から約1週間の合宿がありました。大方、日中ずっと遊んでちょっと練習するくらいの所謂サークルの合宿とやらなんだろうなと思っていましたが、地獄を見ることになりました。

朝の5時から夜の10時まで、ご飯と風呂を除けばほぼずっと練習でなおかつ、今までのゆるくて優しい先輩たちはどこへ行ったのかと思わされるほど厳しいダメだしの嵐。

極めつけは、ミーティングと呼ばれる怒られる時間でした。先輩数人に囲まれて、「お前やる気あんのか?勝つ気あんのか?」などと言葉攻めを食いました。やる気も勝つ気もそりゃ特にないでしょ。だってそんなつもりでこのサークル入ったわけじゃないもん。そもそも新歓期でこんなこと言ってなかったやんけ。と思っていましたが、耐えに耐えてなんやかんやで合宿を終えました。

 

さて地獄の合宿も終わり、夏休みだ!遊ぶぞ!と思っていた矢先、合宿後の飲み会で先輩から奇妙な言葉を聞くことになります。

「お前ら、やっと合宿終わったと思ってるかもしれんけど9月は朝9時から夜9時まで練習やぞ」

はい、意味わからん。酔っとんのかこいつは。

ハハハと同期と笑っていましたが、どうも先輩たちの様子を見るにこれはマジだと分かり絶望しました。

 

9月、本当に朝から晩までずっと練習していました。週に一回、あの「ミーティング」もありその度に精神をやられ、モンスターエナジーを飲み、夜中に自主練させられ、モンスターエナジーを飲み、ケガで途中棄権した同期を見て俺もチャリでこけて腕でも折るかと策謀し、断念し、モンスターエナジーを飲み、なんとかその地獄の一か月を耐え忍んだ頃には、9月末の新人戦で負けて号泣する程度にはそのサークルのマインドにしっかり染まっていました。

 

さて、このまま後期が迎えられるかというと当然そうではないです。10月は一切楽しめなかった夏休みを取り戻すかのように授業をサボりまくり、11月は学祭があったのでその準備やらなんやらでサボり、12月はその流れで狂い切った生活習慣を戻せずサボり倒してしまいました。さて1月、テスト期間に入るしいい加減勉強せねば、と思っていた矢先、いつもの練習会のあとの先輩からの発表に絶望します。

「1月後半から2月中旬にかけて、また9月と同じ感じだから」

テスト勉強は?授業は?

「安心しろ、授業時間は練習なしだ」

当然だな?

でも授業時間以外は練習があるわけです。空きコマが存在していれば練習に充てなければいけないし、睡眠時間も当然のように削らされます。

テスト勉強する時間などどこにもありませんでした。

 

結果として1回生後期に取得した単位は全部で10単位にも満たなかったと思います。

言い訳といえば言い訳なのかもしれません。ですが、明らかに私のキャパは超えていました。

実際、適応障害のような症状にもなっていましたし、クラスの友達からはさんざん心配されていました。

 

辞めようと当然思いましたがなかなか上手くはやめることができません。

テストが終わったくらいのタイミングで一度練習から逃げ出したことがありました。

先輩たちからの連絡は全部放置、同期からの連絡も無視してスマホも家に放置して鴨川沿いを永遠チャリで走っていましたが、夕方家に帰るとスマホに通知が来ていました。

「家に行くからな、逃げんなよ」

という恐ろしい文言がロック画面に表示されていました。

先輩からのLINEです。

 

その後、本当に先輩が家にやってきて説教タイムが始まりました。

せめてこの期間だけはちゃんとやれ、全員に迷惑がかかる、それに辞めるならちゃんと全員の前で宣言して辞めろ、じゃないと認めねえからな。

とのことでした。はっきり言って恐喝です。

結局この恐喝に屈し、練習に戻ることになります。

 

さて一度練習に戻って、この期間を完遂するといよいよ2回生になるぞ先輩になるぞという流れになってきます。こうなると辞めるタイミングが本当にありません。

あの先輩マジでやりやがったな。と思いましたが、どうすることもできません。

 

まあ先輩たちも続けているということはきっと何か楽しいことが2回生以降には待っているんだろう。と信じることにしました。

 

この頃実は先輩たちは外部の先生にレッスンを受けに行っていたことが判明し、私も先生を決めることになるのですが、このときの選択が後の災厄を生むことになるとは誰も知りませんでした。

 

とんとん拍子で話が進んでいき、気が付いたら新歓する側に回っていました。

不都合な情報を隠しながら如何に無知な新入生をだまくらかすかということを考える側に立ち、「ああ、あの頃の俺は本当にいいカモだったんだな」と思うことになります。

同期もみんな如何にして新入生を獲得するかを思案し、サークルの闇をひた隠しにするか画策していました。

この頃、この体制がブラックサークルを作っていくのだと実感しました。

かつては共にブラックな実態に苦しんでいた仲間たちが今度はブラックな実態を再生産するこの体制。はっきり言って以上であると言わざるを得ません。(最近見受けられるおえないって書くやつ全員父親のキンタマの中からやり直してほしい)

 

 

それでも春の大会でちょっとだけいい結果が出て、自分を慕ってくれる後輩もできて、このままなんとなく続けていくのかなとも思っておりましたが、5月の大会あたりから一切結果が出なくなりました。レッスンもそれ以外の練習も割と真面目に取り組んでいましたが、どうも進捗がない。そもそもレッスンの時、先生が言うことが全然理解できないし全く楽しくない。金もかかるうえに全然おもんないやんけ、クソゲーか?どんどんそのスポーツが嫌いになっていきました。一か月、辞めたいと思い続けたらやめようとそう決心しました。

 

さて一か月がたった6月末の大きな大会、同期がどんどん勝ち上がっていく中、私はほぼ最下位の成績をたたき出し、完全に心が折れました。

根気がないと言われればそうなのかもしれません。

だけど中高の頃、殆ど結果を残せなかったものの6年間テニスを続けていたのを鑑みるにそのスポーツに私がかける思いというのは、テニスにかけていたそれとはまったく違うものだったのだろうと思います。中高のテニス部は練習が辛いことも無くはなかったですが、第一そこにいること自体が楽しかったし辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。テニス自体も好きでしたし、テニス部の仲間も好きでした。

けれど件のスポーツは違う。嫌いだし、得るものがあるとも思えませんでした。

このまま続けていたら、結果も残せず、単位も取れずクソみたいな4年間になってしまう、とそう思いました。

 

最終的な決め手は7月の終わりでした。テスト期間に入ったにもかかわらず、レッスンを先生に入れさせられていました。居酒屋のバイトも人足りないから入ってくれと言われてしまいましたし、テスト期間にもかかわらずたいして勉強する時間を作れませんでした。当然、普段から勉強していればテスト期間にぎゃーぎゃーいう必要もないわけですが、普段はサークル活動としての練習とレッスンとバイトでてんやわんやですから勉強などする暇もありません。

 

結果として、2回生前期の取得単位数は12単位ほどでこの時点での取得単位数合計は50単位にも満たなかったと思います。

やってられんわと思い、すべてを投げ出し実家に逃げ、8月の最後に当時のサークルの主将と同期と飲み屋で大ゲンカしてから、正式に辞める旨をサークルの全体LINEで宣言して全員と縁を切りました。

 

 

それからバイトも居酒屋から今の塾講師に変え、時々楽器を触り、クラスの友達と偶に飲みに行く生活を送っています。講義にも出席し、真面目にノートを取り学ぶことの楽しさを思い出し、最近では博士課程も悪くないと思うようにもなりました。

出会いが一切ないので、彼女などという概念は私の世界には存在しませんが、代わりに心の平穏と単位を得ることができました。

私の大学生活という一つのRPGのトゥルーエンドを見るためにはサークルを辞めるという選択が正しかったのだろうと思います。

 

ですが結局は選択の問題に過ぎないのだろうと思います。

あのブラックサークルにいたら4年で大学を卒業出来なかったにしても童貞は卒業出来ていただろうと思いますし、感動やそこにあるドラマを体験することもできたことでしょう。

あのサークルに残っている人たちを否定するのもまた違うと思うのです。彼らは彼らの選択であの場に残っているわけですから、彼らの選択を否定することは私自身の選択を否定することと大して変わらないのです。

 

 

ただ、

「ここにいるのはなんか違うぞ、自分がやりたいことってなんだったっけ」

と思うようであれば、すぐさまその場所からは逃げるべきです。私は少し逃げ遅れたのでこのような有様になっています。

 

過度な引き留めや、初期とは明らかに違う態度、その他私がいたブラックサークルと似た要素が散見されたらその団体がブラックであることを疑い、すぐに外部の人間に相談しましょう。お兄さんとの約束だぞ。